『松原正全集』第四卷「自衞隊よ胸を張れ」
刊行されました。「解説」を書きました。
(Facebookからの轉載)
村上春樹の『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(新潮文庫)83~87頁には「テネシー・ウィリアムズはいかにして見捨てられたか」と題して、早大演劇科在學時の話が書かれてゐる。ウィキペディアから引くと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%A3%AE#cite_note-59
^ 早稲田大学の映画演劇科に入学した村上は、最初の講義の一つにテネシー・ウィリアムズの戯曲を英語で読む講座を選んだという。村上はエッセイの中で、「でもこの先生がいささか変わった人で、講義をしながらほとんど初めから終わりまでテネシー・ウィリアムズの悪口を並べ立てていた。」「おかげさまで僕は好きな作家を一人減らすことができた。どうもありがとうさん。」、「その遥か昔のテネシー・ウィリアムズの講義のことを思い出すたびに、『やはり人の悪口だけは書くまい』とつくづく思う」、「これは早稲田大学文学部が僕に与えてくれた数少ない生きた教訓のひとつである」と記述している[50]。
また柴田元幸との對談では、次のやうに語つてゐる。
https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202103010001/
村上:では、翻訳の話をします。僕は25年ぐらい翻訳の仕事をしているんですけど、翻訳を正式には勉強したことはないんですよね。大学のときも、早稲田の演劇科というところに行っていて、英語を専門にやっているところではなかった。
演劇科にいたときにあった英語の授業は一つぐらいかな。そうだ、テネシー・ウィリアムズを一年読んだんですよね。そのときの僕の先生というのが、テネシー・ウィリアムズが大嫌いなヒトだった。それなのに一年間ずっとテネシー・ウィリアムズを学生に読ませて、毎週悪口を言っていました。テネシー・ウィリアムズがいかに二流の書き手であって、戯曲の内容がいかにくだらないかというのを全部いちいち言うわけ。名前の付け方が気に入らないとかね、この筋の展開が気に入らないとか。僕はテネシー・ウィリアムズってわりと好きだったんだけど、一年後にはなんとなく嫌いになってた(笑)。だから大学の授業っていうのにはあんまりいい思い出がないんです。柴田:アメリカ文学以外にも、英語に関する授業はいろいろあったんですか?
村上:いや、演劇科ではフランスとかドイツとかのほうが多くて、英語の授業は少なかったです。[後略]
村上がこの思ひ出を持ち出すのは、要するに以下の事を主張したいからである。
https://onmymind.exblog.jp/18470690/
何かを非難すること、厳しく批評すること自体が間違っていると言っているわけではない。すべてのテキストはあらゆる批評に開かれているものだし、また開かれていなくてはならない。ただ僕がここで言いたいのは、何かに対するネガティブな方向の啓蒙は、場合によってはいろんな物事を、ときとして自分自身をも、取り返しがつかないくらい損なってしまうということだ。そこにはより大きく温かいポジティブな「代償」のようなものが用意されていなくてはならないはずだ。そのような裏打ちのないネガティブな連続的言動は即効性のある注射漬けと同じで、一度進み始めるとあとに戻れなくなってしまうという事実も肝に銘じておかなくてはならないだろう。
〔略〕それよりはむしろ「これはいいですよ、これは面白いですよ」と言って、それを同じようにいいと思い、面白いと喜んでくれる人をたとえ少しでもいいからみつけたいと思っている。経験的に深くそう思う。これは早稲田大学文学部が僕に与えてくれた数少ない生きた教訓のひとつである。(「テネシー・ウィリアムズはいかにして見捨てられたか」86-7)
上記の〔略〕の箇處、原文には、
遥か昔のテネシー・ウィリアムズの講義のことを思い出すたびに、「やはり人の悪口だけは書くまい」とつくづく思う。
とあるのだが(最初に引いたウィキペディアの註記參照)、このエッセイ全文を讀んでみれば、件のウィリアムズ扱き下ろし先生に關する結構な「惡口」になつてゐる事が解る。「おかげさまで僕は好きな作家を一人減らすことができた。どうもありがとさん。」――かういふ嫌味つたらしい口調からも村上の人の惡さが充分感じ取れるだらう。「早稻田大學文學部が僕に與へてくれた數少ない生きた教訓のひとつ」などとこれまた嫌味を言ひながら、いざその母校から自分の記念館設立を持ち掛けられたらホイホイと(?)話に乘る――如何にも俗物的だ。が、一往、本人の辯も紹介しておかう。
https://www.waseda.jp/top/assets/uploads/2018/11/murakami_haruki_20181104.pdf
昨今は大學の單位認定にもおほらかさが失はれたので、もしかしたら今なら卒業できないかも知れぬ。
それはともかく、「件のウィリアムズ扱き下ろし先生」は一體誰なのか。どうもこれは吾が師匠、早大名譽教授・故松原正先生ではあるまいか。念の爲、兄弟子の一人に訊いてみたところ、「村上の發言、多分、松原先生の講義についてのものでせう」との事であつた。ただ、村上在學中の早稻田大學第一文學部演劇科にそのやうな科目があつたとは、當時の講義要項や學科目配當表を調べてみても確認できなかつた。尤も、英文科には松原助教授擔當の「英米演劇」があつたが、「一年間ずつとテネシー・ウィリアムズを學生に讀ませ」るのではなく、複數の劇作家を取上げる講義(しかも主として英文科4年生對象)だから、これも違ふだらう。となると、本當にそのやうな講義はあつたのか?
唯一考へられるのは、外國語科目としての「英語」の授業(語學に限らず今は半期が當り前だが、昔は殆ど全科目が通年だつた)。確かに松原助教授も幾つかのクラスを受持つてゐる。但し春樹青年の所屬クラスが何處だつたか判らぬ以上、文獻上で調べがつくのは最早ここまで、あとは本人に直接問ひ質すしかあるまいが、そこまでする氣は起らない。
「何かに對するネガティブな方向の啓蒙」には「より大きく温かいポジティブな『代償』のやうなものが用意されてゐなくてはならないはずだ。そのやうな裏打ちのないネガティブな連續的言動は即效性のある注射漬けと同じで」云々と村上は言ふ。何とも淺はかな評である。松原先生(だつたとして、そ)の「ネガティヴな連續的言動」とやらには、「温かい」かどうかはともかく、「より大きく[中略]ポジティヴな『代償』のやうなものが用意されてゐな」かつたと果して言へるか。さういふもの無くして、「毎週」「講義をしながらほとんど初めから終はりまでテネシー・ウィリアムズの惡口を竝べ立て」るといふやうな情熱が涌くであらうか。「代償」や「裏打ち」はあつたに決つてゐる。作劇術はかくあるべしとの理想がそれであつたと(長年に亙つて指導を受けた私は)思ふ。それに照らして現實の戲曲を批判したのであつて、何ら論理的根據も無しにその時々の氣分で恣意的にただ「惡口を竝べ立て」た譯ではないのである。現に村上自身も、
テネシ-・ ウィリアムズを有効に罵倒する論理に――たしかに今思い出してもかなりうまく批判していた――感心さえした。(86頁)
と書いてゐる(とはいへ、これは先に擧げた「おかげさまで僕は好きな作家を一人減らすことができた。どうもありがとさん。」の直前の一文だから、多分に皮肉的な表現と言へよう)。さうであるならば、大學生當時は無理であつたとしても、今こそその「有效に罵倒する論理」をそれこそ「有效に罵倒」してみてはどうか。それが出來ぬのなら「感心さへした」などと嫌味は言はず、一切口を閉ざしてゐるがよい。
「むしろ『これはいいですよ、これは面白いですよ』と言つて、それを同じやうにいいと思ひ、面白いと喜んでくれる人をたとへ少しでもいいからみつけたいと思つてゐる。」――今の御時世、かういふ「温かい」態度のはうが好まれるのだらうが、結局のところ、それが内輪襃め・馴合ひを生み、延いては文學の墮落を加速させてゐるのだと思はざるを得ない。いや、文學に限らぬ、現代日本人の生き方そのものに關はる由々しき問題ではあるまいか。
以上の拙文、恩師辯護の爲にする單なる「惡口」には終つてゐないものと信ずる。
(早大英文科教授 岡田 俊之輔)
題名は、福田恆存「羽仁五郞を叩く―― 一讀三歎 當世書生氣質」(昭和47年;文藝春秋版『福田恆存全集』第六卷所收)の單なる猿眞似であり、特に深い意味は無い。根井[ねのゐ]氏は NENOiなる書店の主人との事だが、その彼を何故「叩く」か。先づは以下のリンク先をお讀み戴きたい。
https://nenoi.hatenablog.com/entry/2021/10/06/141404
上記ブログの存在は、或る方からたまたま教へて戴いた。記事自體は比較的新しいものの、内容は2年も前に遡る話である。とにかく自分の知らない所でこのやうな事が祕かに行はれてゐたといふのが只々氣持惡い。かうした惡質極まる行爲は斷じて捨て置く譯にはゆかぬ。それゆゑ以下、ちと手嚴しく且つ丹念に「叩」いておかうと思ふ。なほ引用は、特記無き限り、同記事からのものだ。
講義名はブログでは伏字になつてゐるが、「政治と文學――ジョージ・オーウェルの評論」である。無論、講義擔當者は私、岡田俊之輔。
前後の流れは不明ですが、講義中に愛知トリエンナーレの話になり、その際に同展で展示された慰安婦少女像に言及した上「慰安婦に強制はなかった」旨の発言をし、一人の学生と議論になった。
その際に講師である〇〇氏が「もう、いいから!」と強い語調で一方的に議論を打ち切ったとの事。
同講義に出ていた韓国籍の学生(反論した人とは別人)はその後この授業に出なくなった。
私も「前の流れ」は憶えてゐないが、行き掛り上、その旨の發言はした。そしてこちらが幾ら理詰めで「慰安婦に強制はなかつた」旨を説いても、その「一人の學生」は一切聞く耳を持たず、議論は平行線を辿り、本筋のオーウェル講讀が一向に進まないため「議論を打ち切つた」までの事である。一往註記しておくが、「強制はなかつた」とは、日本が國策として(つまり法的な手續を蹈み正式に)強制徴募したなどといふ事實は無いとの意味であり、從つて國家として謝罪・賠償するのは法理に反するといふ至極當然の見解を述べたものだ。お可哀想にと同情する事と、國家が公式に法的謝罪を行ふ事とは自づと別物である。固より、國策による組織的な強制徴募と、河野洋平らの所謂「強制性」とやらを混同する事など絶對にあつてはならない筈だが、根井氏に限らず、その邊を(知つてか知らずか)曖昧にしたまま、「強制連行は有つたに決つてゐる!」と斷定的にかたる手合が餘りにも多過ぎる。「韓國籍の學生」が不愉快に思はうと思ふまいと、それとは別個に、飽く迄も理を説く事が學者の端くれの務めであると言へよう。私立大學とはいへ吾が早稻田大學は未だ、「お客樣は神樣です」状態には墮してゐないと信じたい。
本講義はジョージ・オーウェルの英文エッセイを基に、政治と文学の関係を読み解く授業であるようですが、英文学の研究者が専門外の「従軍慰安婦」問題について学生の講義の中で行い、かつまた一方的に議論を打ち切るという対応は講師という立場を利用したハラスメントに他ならず、学問のとば口にたつ大学生への態度しては大変問題と認識しております。
根井氏がどう「認識して」をられようと、たとひ「專門外」の事柄であつても、世間の“空氣”に阿る事無く、筋の通らぬ事を筋が通らぬと述べる事こそ「學問のとば口にたつ大學生への態度」として推獎されるべきものと私は考へる。また「打切り」については上述のとほりであつて、それをしも「ハラスメント」呼ばはりされては、講義自體が成り立たない。
また、韓国籍の学生の欠席がこの出来事に起因する出来事であるとした場合、このクラスへの欠席により本講義を履修とならなかった場合、GPAが下がる事が想定されますが、従軍慰安婦というテーマが韓国というバックグランドを持つ学生にとっては大きなものであることは想像に難くなく、プロテストとしての欠席がGPAへの影響をないものとして対応などの検討の必要だと思われます。
これは本講義ならびに同講師の授業を同様の事由により欠席をしている他の学生についても同様であると思います。
不快に思ふのなら「プロテストとしての缺席」はどうぞ御自由に、講義も“切り”たければ切つてくれて結構としか言ひやうが無いが、但し「韓國といふバックグラ[ウ]ンド」等々を持ち出すのは學問的に反則である。そんな事を言ひ出したら、この問題に限らず、批判的考察の對象に何らかの形で屬する者が受講生にゐる場合、眞つ當な議論は一切出來なくなつてしまふ。さういふ恐るべき事態を根井氏は容認・獎勵してゐるも同然だが、その自覺はあるのだらうか。無いのならそれこそ「大變問題」だと思ふし、逆にあるのなら、もはや大變で濟まされるどころの問題ではない。假に「お前の店に置いてある本は氣に入らぬ、撤去せよ」と言はれたとして、あなたは理不盡な客の要求に唯々諾々と從ふか? 少しは己れの身に置き換へて考へてみるがよい。
ところで、かのオーウェルは「[言論の]自由」を定義してかう書いてゐる。
If liberty means anything at all it means the right to tell people what they do not want to hear. The common people still vaguely subscribe to that doctrine and act on it. In our country [...] it is the liberals who fear liberty and the intellectuals who want to do dirt on the intellect [...]
(George Orwell, ‘The Freedom of the Press’, last paragraph)
邦譯は岩波文庫版『オーウェル評論集』361頁にある。かうした良書が果してNENOi書店には置いてあるのかどうか。
もし自由になんらかの意味があるとするならば、それは相手が聞きたがらないことを相手に告げる權利をさすのである。庶民は今でも何となくこの主張に從ひ、それにもとづいて行動してゐる。わが國では[中略]自由を恐れてゐるのは自由主義者であり、知性に泥を塗りたがるのは知識人なのだ。[後略]
(「出版の自由」小野寺健譯;表記を一部變更)
リベラル派知識人の恥部を見事に衝いてゐる。そしてこの状況は、當時のイギリスに限つた話ではなく、どこぞの國に於ては今でも日々お目に掛るお馴染みの光景と言へよう。だが、如何に不快であらうとも、苦い眞實は認めねばならぬ、少なくとも聞く耳くらゐは持たなければいけない。ここで先に登場した例の喰ひ下がり學生の名譽のために一言すれば、知的誠實を重んずべしとのオーウェルの教へを實踐したのか、(不愉快ではあつたらうが)最後まで一度も休まずに出席し、(反抗的な樣子を見せつつも)講義自體は喰らひ附くやうにして聽き、(批判的な内容の)期末リポートも提出して單位を取得した。教師の思想に文句があるなら、このやうな態度を貫くべきなのである。私も學生時代は勿論さうしてゐたし、さもなくば“切”つて、單位はこちらから抛棄したものだ。根井氏の出身校 ICUでは、氣に食はぬ教師の講義を勝手に切つても「GPAへの影響をないものとして對應」してもらへたのであらうか。まさかそんな馬鹿げた話は無いと思ふが、萬一さうだとしたら、學生にとつては正に樂園の如き學園であり、一方、教師にとつては地獄のやうな職場に他なるまい。
Milestone Express2019にて〇〇氏が担当されている「英文演習5(イギリス20世紀以降)」という講義の紹介が記載されておりますが、そこには「P.S.先生の思想はちょっぴり傾いている」と記載があり同種の発言を以前より恒常的に行っていることが類推されます。(Milestone Express2019 P.447)
御存じない讀者のために附け加へておくと、『Milestone』といふのは早大生のサークルが編輯・發行してゐるミニコミ誌で、毎年その時期になると(虚實綯ひ交ぜの)講義情報一覽が載る。嘗て同誌には「ファッショ的發言」をする教師云々と評された事すらあるから、この程度では今更何とも思はぬ。(笑)
同講師については自身のフェイスブックページにおいて、とある記事への批判として記者の学歴を見下す発言を投稿しており(8/15投稿 注:ここに該当投稿のリンクを貼っていました。リンク先の記事はすでに削除されていました)、学歴の一事を持って他者を見下すような人間性の人物が果たして果たして講師としてふさわしいのか疑義が生じます。
私自身、Facebookには不滿があり、何の事前通告も事後報告も無しに消された記事がある。しかしながら、上記の「記事はすでに削除されて」などゐはしない。何やら私に關して惡印象を與へたいのか、或は單に檢索能力に缺けるだけなのか知らないが、いづれにせよ、現存する「該當投稿のリンク」を以下に貼つておく。
https://www.facebook.com/shunnosuke.okada/posts/2387940798146101
私が批判した基記事の見出しは「自衞隊幹部が異樣な低學歴集團である理由」となつてをり、これは編輯部が附けたものかと最初は思つたが、本文の出だしからしても記者本人の意見と看做して差支へあるまい。ならば「さほど威張れる學歴でもあるまいに」との評ぐらゐは甘受して然るべきだと思ふが。この件ばかりでなく、根井氏の記述には文脈無視が相當に目立つ。いや、總てさうだとさへ言つてもよい。事情がはつきりと解らないのなら書くべきではないし、意圖的にやつてゐるのなら實に許し難い鄙劣な行爲である。それにしても、よくもまあ以下のやうな事どもを“御注進”に及べたものだ。
以上を踏まえ、事実の確認の調査、ならびにもし当店にお見えになった学生の話が事実とそう違わない場合、下記3点の対応をお願いしたく存じます。
・アカデミックハラスメントへの毅然たるご対応
・欠席学生への同講座への救済措置のご検討
・〇〇〇〇氏の講師への適性の再検討私自身は残念ながら貴学への卒業生ではありませんが、早稲田にてお店を構えるようになり2年。
お店にお越しになる早稲田生はどなたも大変に聡明で真面目である印象を持っております。
未来ある学生たちに対し、そのような講義のあり方、人間性が当たり前のものだとは思って欲しくないと強く願い今回ご連絡した次第です。
この僞善臭芬々の、當事者でも何でもない「何処の馬の骨ともわからん、店主のメール」には受領通知以外「その後特にご連絡などは」來なかつたらしく、そこで追ひ討ちを掛けるべく、しつこくも再度、店主殿は吾が職場へ次のやうに通報したといふ。何たる執念か。
以前相談受けた学生からは、特に生徒側へのアプローチはなく
逆に
「ユダヤ人がイスラエルに今住んでいられるのはヒトラーのおかげ」
などという発言をしていたという事も伺っております。
今回のご連絡した一連の内容が事実であるなら本講義は講義という名を借りた素人の個人的妄言を垂れ流しているものでないかという疑念が生じてきますが、貴学術院においてはそれが文学の講義と見なされるものなのでしょうか?
オーウェル講讀講座でイスラエル建國の話をしたのは恐らく、最後の數囘で取り上げた ‘Notes on Nationalism’(前掲邦譯書では305~342頁)の中に出て來る「シオニズム」運動に關聯してであつたか。その際、私が或る批評家の名前を擧げ忘れたのか、それとも NENOi常連の「以前相談受けた學生」がその名を聞き逃したのか、今となつては確かめやうも無いけれど、ともあれ「ユダヤ人がイスラエルに今住んでゐられるのはヒトラーのおかげ」云々は私の「個人的妄想」ではなく、先年亡くなつたその批評家 George Steiner の小説 The Portage to San Cristobal of A. H. に登場するアドルフ・ヒトラーのイスラエル觀なのである。この作品のあらましについては、以下の舊稿を參照されたい。
http://okadash.private.coocan.jp/getsuyo/ah.html
拙稿にも記したとほり、作中でヒトラーは徹底したユダヤ批判と自己辯明の大演説を打[ぶ]つのだが、「ヒトラーをして斯くも雄辯に反ユダヤ的言辭を吐かせてゐる作者スタイナー自身、實はナチスの暴政からアメリカに逃れた體驗を有するユダヤ人なのである」。但しスタイナーの手に成るヒトラーのイスラエル觀には紙幅の關係上、拙稿では觸れられなかつたので、本年度秋學期の講義科目「英文學講義 Ideas in Context 6――ジョージ・スタイナーに學ぶ」第14講の音聲ファイルを特別にアップロウドしておくから、そちらでお聽き願ひたい。
http://okada.w.waseda.jp/media/IiC6-14.mp3 (87.4 MB, 1時間31分45秒)
因みに、このファイルの 1:28:00 邊りからが當該の箇處である。
テクストは Google Books に頼らう。こちらは講義中に使用してゐるものとは版が異なり、劇作家 Christopher Hampton によつて戲曲化されたものではあるが、ヒトラーの臺詞に殆ど違ひは無い。
Would Palestine have become Israel, would the Jews have come to that barren patch in the Levant, would the United States and the Soviet Union, Stalin’s Soviet Union have given you recognition and guaranteed your survival, had it not been for the Holocaust?
さて、ここまで讀み聽きして來た上でもなほ根井氏は、「文學の講義と見なされ」ぬ「講義といふ名を借りた素人の個人的妄言を垂れ流してゐるもの」と言ふか? 更には私だけでなく、(敢へて虎の威を借りて問はう)大批評家のスタイナーまでをも打ち負かす自信が果しておありか?
そろそろお仕舞ひにしたいから、あと殘つてゐる、例の常連客が革○派(伏字岡田)の學生に勸誘された話だの、學業を疎かにして政治活動ごつこに現を拔かすグレた糞餓鬼だのについては省略する。とにかく他人を告發する文章にしては餘りにもふやけ切つた駄文にかうして長々と附き合つて來た譯であるが、「こちらでもできる範囲で動いてみる事も検討しております」なんぞと大學に搖さ振りを掛け、根據薄弱なままに私を陷れようとした行爲は決して許されるものではない。「疑義が生じます」だの「一連の内容が事實であるなら」だのといつた表現を用ゐて、いざといふ場合の逃道を作つた積りでゐるのだらうが、そんなまやかしが通用するとでも思つてゐるのか。以上の論述により、退路は總て絶たれたものと認識すべきである。
根井啓氏に告ぐ。早大と異なり貴店には「ハラスメント防止室」が無いから、ここに直接勸告する。
最低限これらすらも行へぬ知的に不誠實な人間であるならば、活字を扱ふ業界から潔く足を洗ふ事を強くお勸めする。私の「人間性」を云々する前に、先づは己れの頭の蠅を追ひ給へ。
以上
早稻田大學文學學術院
岡田俊之輔
(https://www.facebook.com/shunnosuke.okada/posts/3057066051233569 より轉載)
實は照屋佳男(早大名譽教授)譯オーウェル評論選の存在は、元『諸君!』編輯長・仙頭壽顯氏の書評ブログ「古本蟲がさまよふ」http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-5100.html で知つた。これまでもたまに閲覽してはゐたものの、ではこの度は何故覗いたのかと言ふと、きのふ女房が本屋で或る本を立讀みしてから歸宅後、スマフォでAmazonのカスタマー・リヴューに目を通すと「古本蟲がさまよふ」氏の文章がヒットし、(氏の事を知らぬまま)私に見せてくれたので、私も自分のPCで確認すべく、改めて同ブログにアクセスしたといふ次第。同文の書込が http://kesutora.blog103.fc2.com/blog-entry-4953.html にあつた。
ところでその書評文に、
ジョージ・オーウェルのエッセイ「本屋の思い出」
といふ一節があり、さう言へばこの “Bookshop Memories” といふエッセイ、昔、とある試驗に出したよなあ、と懷かしくなり、短いから全文を讀み返してみた。どの件りを出題したかは忘れてしまつたが、内容自體は面白かつた。そしてインターネット上に轉がつてゐる邦譯 https://open-shelf.appspot.com/BookshopMemories/chapter1.html も序でに覗いてみた。譯者は「大阪市在住プログラマー。 飜譯とか、物理シミュレーションとかやつて」ゐる H. Tsubota(坪田遼)氏。Twitterの自己紹介にもあるとほり(https://twitter.com/h_tsubota)、「オーウェル、ウェルズ」の飜譯も澤山公開してゐる。但し以前、オーウェルを扱つた演習の期末リポートに學生が引用して來た氏の譯文にはどうも解り難い箇處があつたりしたので、今囘はどうだらうと思ひながら讀んでみると、やはり誤譯があつた。
原文の終りから2段落目。本屋だからといつて本に詳しいとは限らないとオーウェルは言ひ、業界紙に掲載される書籍の買取廣告を例に擧げてかう書いてゐる。
If you don't see an ad. for Boswell's Decline and Fall you are pretty sure to see one for The Mill on the Floss by T. S. Eliot.
この部分の譯文は、
もし広告を見られなければボズウェル[19]の衰亡はT・S・エリオットのフロス湖畔の水車小屋と同じ値段だと思えばまず間違いない
となつてをり、更に脚註19には、
ボズウェル:おそらくジェイムズ・ボズウェルを指す。「衰亡」は「ローマ帝国衰亡史」を指していると思われるがこれの著者はエドワード・ギボン。ジェイムズ・ボズウェルとエドワード・ギボンは同時代人なのでおそらくオーウェルの思い違いだと思われる。
とある。何ともはや頓珍漢な解釋であり、原文の意味が全く讀み取れてゐない。オーウェルは別に「思ひ違ひ」などしてをらず、『ローマ帝國衰亡史』の著者(エドワード・ギボン)を『サミュエル・ジョンソン傳』の著者ジェイムズ・ボズウェルと取り違へる本屋はまづゐまいが、『フロス河畔の水車小屋』の作者たる女流小説家ジョージ・エリオット(George Eliot)を『荒地』の詩人T.S.エリオットと取り違へる本屋は必ずゐる、と言つてゐるに過ぎない。從つて正譯は以下の如し。
「たとひボズウェルの『衰亡』とやらを求める廣告は目にする事が無いとしても、T.S.エリオット著『フロス河畔の水車小屋』とやらを求める廣告はほぼ確實に目にする筈だ。」
岡田俊之輔「絕對者を戴く文化、戴かぬ文化──諭吉、カーライル、獨步、他」
https://www.facebook.com/shunnosuke.okada/posts/3027387540868087
最近のコメント